codeTakt Logo
2024年07月11日

創業からの知見をリモートワーク声明としてまとめました

リモートワークは理想的に思われがちですが、実際には多くの困難があります。
コードタクトでは、コロナ後、オフィス出社に戻る傾向が見られる中、私たちの組織は創業以来リモートワークを続け、日本や海外にメンバーが分散しています。 リモートワークでの協働は難しいものの、続ける価値があると確信しており、リモートワーク声明を作成しました。

リモートワーク声明

前文

リモートワークと聞くと、仕事とプライベートのバランスを取りやすく、他人と会わずに済む気楽な働き方だと思われるかもしれませんが、ほんとうにそうでしょうか。かつては先進的な理想の働き方のように語られることが多かったリモートワークですが、その弊害が顕在化したアフター・コロナの社会においては、徐々に従来のようなオフィスに出社するスタイルの働き方が求められる社会に回帰しつつあります。もしリモートワークが理想の働き方であればそれが当たり前になっていてもいいはずですが、どうもそのような社会にはなりそうにありません。

わたしたちは、コロナ禍よりもっと前、創業時から現在にいたるまで一貫してリモートワークを価値の中心に据えている組織です。メンバーは日本各地ばかりでなく、アメリカ・インドネシア・台湾といった海外にまで散らばっています。わたしたちが一堂に会し、実際に「会う」ことができるのは、年に1度あるかないかです。会う機会のない他人同士が組織として協働し、衝突を避けながら合意を形成し共に歩いていくことは、わたしたちの経験からしてもほんとうに難しいことです。じっさい、そのことに気づいた多くの組織がリモートワークを諦める方向に舵を切っています。しかしそれでも、わたしたちはリモートワークを前提とした組織であることを放棄しません。リモートワークが、それに伴う困難と向き合いながらも続ける価値があるものであることを確信しているからです。

わたしたちは、リモートワークを成功させ真に価値のある働き方とするには、それ相応の心構えや努力が必要になると考えています。この文章は、それを実践しようとするわたしたちの決意と覚悟を宣言するものであり、また、それがわたしたちコードタクトという組織の枠を超えて、より多くの人々に共感してもらえることを願って書かれるものです。

リモートワークが難しい理由1:空間の隔たりが生むなめらかな他者

リモートワークの場にはオフィスがありません。あったとしても便宜的なもので、メンバーが日常的に集合することを想定していません。メンバーは自らの判断でコワーキングスペースなどを借りることも可能ですが、多くの場合は家というプライベートの空間が同時に仕事の空間にもなります。「通勤する必要がない」ということはリモートワーク最大のメリットですが、同時にリモートワークを通じた他者との協働に困難をもたらすものでもあります。

オフィスがないとどうなるのかを考えてみましょう。オフィスがないということは、ひとが集まり、顔を合わせられる場所がないということです。ひとが集まれば自然とコミュニケーションがはじまります。もっともわかりやすいのは会話でしょうが、わたしたちが誰かと顔を合わせて会話をしているとき、そこで行われているのはことばのやりとりだけではありません。わたしたちはことばをやりとりしながら、同時に相手の視線や表情、しぐさなどに注意を向け、そこからなんらかの情報を読み取っています。それどころか、場合によってはことばなど交わさなくても、目が合って微笑み合うだけでもなにかが通じ合ったような気分になったりもします。コミュニケーションとはそういうもので、必ずしもことばの交換によって達成されるとは限りません。

たとえば、オフィスに出社する働き方であれば、理由はわからないけど辛そうにしているひとの肩をポンと叩いたり、感謝を伝えたいひとのデスクの上にそっとコーヒーを置いておいたりすることもコミュニケーションとして成立するでしょう。このようなコミュニケーションは、熟慮の末に行われる意図的なものというよりも、ある状況に直面したときに、もっと衝動的に、つい身体が「そう」してしまうようなものとして行為されます。あるいは、自分以外の人に対してそのように振る舞う同僚を偶然目撃することもコミュニケーションのひとつだと言えます。怖いと思っていたひとが毎日植木に水をやっている姿を見ているうちに、そのひとの意外な優しさを「知ってしまう」かもしれません。あなたはそのことを「知りたい」と思っていたわけではないし、その怖いひとにしても、あなたに優しいと思ってもらいたくて水をあげているわけではなかったのにもかかわらず、です。

このように考えれば、ひとが集まるということは、偶然性と予測不可能性に満ちたコミュニケーションの空間に自身を晒すということだと言えるでしょう。わたしたちはそのような場で得られた経験をもとに他者を知り、それを積み重ねていくうちに信頼が生じ、その上ではじめて他者に何かを託し協働することが可能になるのです。

一方で、リモートワークの場ではそのようなことが自然には起こり得ません。たしかにミーティングの際にカメラをオンにすれば互いの顔を見ることができ、それはあたかも目の前にひとがいるかのように感じられるかもしれませんが、その関係性は一時的なもので、せいぜい1時間くらいのミーティングが終わってしまえば、わたしたちはふたたびアバターとテキストの世界に引き戻されます。ミーティングは業務遂行上必要な事柄を話し合う場ですから、そこで期待されるのは計画性のある目的的なコミュニケーションであり、目的性のないーーーすなわち生産性に寄与しないものは遠ざけられてしまいます。言い換えれば、リモートワークのコミュニケーションは「清潔」で整然としていて、偶然性や意外性が入りこむ隙間がないのです。リモートワークではミーティングの後に肩を落とすだれかの身体に触れることも、コーヒーをご馳走して労うこともできません。それどころかZoomを閉じてしまえば、わたしたちは他者から即座に切断され、その様子を見ることも叶いません。辛そうにしているのか?怒っているのか?気にしていないのか?他者を感じ取るためのヒントが提供されないリモートワークの場では、こうして他者は往々にしてぼやけてはっきりせず、何を考えているのかわからない、のっぺりとしたなめらかな存在になってしまいます。そしてこの「なめらかな他者」は、信頼関係というリモートワークを根底から支える基盤をたびたび揺るがします。

リモートワークが難しい理由2:プライベートと仕事のあいまいさ

リモートワークの場では良くも悪くも仕事とプライベートの境界があいまいになります。 子育て世代のひとであれば、子供の面倒を見ながら家で仕事ができることに魅力を感じるかもしれません。しかし、家で仕事をするということは、かりに自分が集中して仕事をしたいと思っていたとしても、家族の事情により仕事をすることを諦めざるを得なくなるということでもあります。たとえ空間を共有していても家族は家族の時間を生きていて、それは自分の時間とは完全に一致しません。子供は自分が都合がいい時にだけ話しかけてくれるわけではないのです。こうして同じ空間で生活する他者の都合に影響され、仕事とプライベートを目まぐるしく行き来しているうちに、今仕事をしているのか、家族とプライベートの時間を過ごしているのか、ということの区別がつかなくなってきます。仕事がプライベートによって侵食されている状態です。

逆に、プライベートもまた仕事によってたびたび侵食されます。リモートワークの主なコミュニケーションスタイルはSlack上でのテキストのやり取りです。テキストベースのコミュニケーションが無味乾燥としたものになりがちで思いの外難しいということは、現代では多くの人が経験的に知っていることでしょう。あるひとは普通に話しているだけのつもりなのに、ほかの人にはそれがどこか刺々しいように感じられてしまうことがありますし、ただの業務連絡を伝えるためのテキストが、気分によってはそれができていない自分を非難しているものに見えてしまうこともあるかもしれません。もしそのテキストを書いたのが、自分にいやなことを言うはずがないと確信できるようなひとであったならば、そのテキストが嫌なものに見えることもないはずです。しかし、先に述べたように、リモートワークの他者は何を考えているかわからない「なめらかな他者」なのでした。よくわからない他者によるテキストはどのようにでも解釈できてしまいます。単純な賞賛の一言を皮肉だと思うことすらできてしまうでしょう。ひとたびこうした思いに囚われると、わたしたちはいつまでもそれを反芻してしまい、頭の中から追い出すのが困難になります。考えても仕方ないことはわかっているのに、定時を過ぎてもSlackを閉じても、ずっとそのテキストの意味を考えてしまう。リモートワークのプライベートは、独り歩きをはじめたテキストを通じて入り込んでくる「なめらかな他者」によって容易に侵食されてしまうのです。

リモートワークの場は、仕事とプライベートが複雑に入り組んだかたちで癒着しており、その境界もあやふやで、相互に侵食し合いながら変化を続ける動的な場です。このような場においては、プライベートも仕事も100%無菌状態のそれは存在し得ず、ましてや切り分けることなど不可能なのです。これは「仕事とプライベートのバランスをとりやすい」というリモートワークへの一般的なイメージとはだいぶかけ離れているかもしれません。しかし、わたしたちはこれを「切り分ける」かたちでバランスを取るのでなく、むしろプライベートと仕事の混同を避けがたいものとして受け入れ、それを「調和」させようとすることでもバランスが取れるのではないかと考えています。そのような生き方こそ真に価値があるものなのではないでしょうか。

結論:リモートワークには何が必要か

ワーク・ライフ・バランスということばがあります。これは仕事とプライベートを別のものとして考え、それらを切断することを推奨しているものだと思われがちですが、ほんとうに意味するところはそうではありません。内閣府が提唱するワーク・ライフ・バランス憲章にも書かれているように、このことばは「仕事とプライベートの単なる両立ではなく、その相互が影響し合い好循環を生むような状態(=調和)」を実現することでよりよく生きることを目指そうとするものです。わたしたちはこの考え方に共感します。仕事は生きるために仕方なくやることとして生活から切り離されるべきものではなく、また人生そのものとして生活全てを覆い隠すようなものでもなく、他者との結びつきのなかで営まれるうちに生活の一部となり、結果的に生活を豊かにするものであるべきです。

仕事とプライベートの区別が意味を失い、互いに侵食し侵食されるようなリモートワークの場は、まさにその可能性に満ちた場であると言えるでしょう。しかしこれまで見てきたように、その可能性はリモートワークを難しくしている理由と表裏一体のものです。それをリモートワークが失敗する理由としてではなく、真に人間らしく生きるための可能性として理解するために、わたしたちは何をすべきなのでしょうか。

わたしたちはここで、2つの態度を重視します。

1つ目は、侵食してくる他者、すなわち望む望まないにかかわらず意識に入り込んでくる存在を受け入れようとする態度です。他者がどうしてもプライベートに入り込んできてしまうのであれば、それをどうやって排除するかを考えるのではなく、入り込んでくる前提でなにができるかを考えるべきです。相手をより深く知り、認め合い、そこに敵意がないことを確信できれば、侵食してくる他者も異質な脅威ではなくなるからです。

2つ目は、そのために他者との間に「ざらつき」を作ろうとする態度です。なめらかな他者は想像の中で勝手に動き始め、ひとたびネガティブな方向に考え始めると、それは慣性にまかせてどこまでもすべり続けてしまいます。しかし他者を深く知ると、ディテールが上がることでその表面がざらつき、摩擦力が生じるようになります。Slack上のテキストに囚われて思考がすべりはじめたとき、「いや、でもそんなことをするひとではないよな」と押し止まること、判断を留保することができるようになるということです。異なるひとびとが互いを尊重し合いながら共に生きていくためには、このような粘り強さ、余白のようなものが必要です。わたしたちはこのざらつきを生じさせるために、リモートワークの構造上計画的で「清潔」になりがちなコミュニケーションを、なんらかの手段をもちいて偶然性や予期不可能性を導入することで、意図的に「汚す」必要があるのです。

リモートワークという働き方は、けっして他者と関わらないですむような気楽な場ではありません。むしろその逆で、時間的・空間的な制約があるなかで、それでもあらゆる手段を用いて他者と関わり、他者を知ろうと足掻き続けることが必要になる場です。わたしたちコードタクトは、より良い働き方がより良い社会を作るという信念にもとづき、リモートワークにそのような未来の可能性を託し、今後も真摯に実践を続けていきます。

Contact

お問い合わせは下記のフォームからご連絡ください。担当者より折り返しご連絡を差し上げます。